『君たちはどう生きるか』をマンガにした僕はどう生きるか①
『君たちはどう生きるか』という言葉は、かなり強い。そんな言葉を投げかけられても、ちょっと咄嗟にはなんて応えていいのか分からない。
言い淀んでもごもごしているうちに、「君はどう生きるか」ではなく、「君たちは」と問われていることに気づく。
なぜ君ではなく、君たちなのだろうか?
それが、僕が小説『君たちはどう生きるか』を初めて手にしたときに、なんとなく思ったことだった。
「歴史的名著」といわれるその小説をマンガ化する企画が起こり、担当の柿内さんからその本を渡されるまで、恥ずかしながら僕はそれを一度も読んだことがなかった。
出版されたのは1937年。太平洋戦争が始まる前のことである。それ以来80年間、ずっと読み継がれてきた。宮崎駿さんや、池上彰さんも影響を受けたことを公言している。
作者の吉野源三郎さんは、編集者・児童文学者・評論家・翻訳家・哲学者とたくさんの肩書きを持った人で、
岩波少年文庫を創設したことでも知られている。
「この本を書いているとき、吉野さんはどんなことを考えていたのだろう」
それを想像しながら本を読み返すたびに、発見があり、吉野源三郎という一人の人間の強さと優しさに圧倒された。
執筆当時は軍国主義真っ盛りで、滝へ向かう濁流のごとく、戦争へ向かう流れが避けがたくあった時代である。反戦的な態度や思想がことごとく潰されるキナ臭い空気が、国家というシステムによって醸成され続けている。
その中にあって、「これは人間のあるべき姿ではない」と危機感を感じ、吉野さんが全存在をかけて書き上げたのが『君たちはどう生きるか』である。
作中では、直接的に戦争について言及するような箇所はない。そういう時代的な状況をモチーフにするのではなく、そのテーマを一段階翻訳して「コペル君」と「おじさん」をとりまく小さな世界に移し替えたのちに、人間にとって本質的なものを描き出そうとしている。もしかしたらそれは、検閲を突破するためにそうせざるをえなかったのかもしれない。でも結果的にその制約が、作品を時代を超えて親しめるものにしたように僕は思う。
たとえばコペル君は、クラスのなかで「浦川君」がいじめられていく空気がうまれ、それが拡大していくのをどうにもすることができなくて悩む。自分自身も「目に見えない大きな流れ」の一員となってしまっている。
そんな悩みをコペル君は「おじさん」に話しながら、ひとつひとつ学び成長していく。
(マンガ版『君たちはどう生きるか』では、コペル君の悩みを受けておじさんがどんなことを考えたのか、章ごとの「おじさんのノート」で読むことができる。マンガとテキストが交互に繰り返される変わった構成なのだ)
作品のなかで大きく描かれるのは、コペル君がしてしまった「ある過ち」である。(それが一体どんなものなのかは、ぜひマンガを手に取って確かめて下さい)コペル君はそのことで「死んでしまいたい」と思うくらいに苦しむ。おじさんはこれまでにもたくさん印象に残る言葉をノートに書き残しているのだが、このときのものがもっとも印象に残っている。
「心に感じる苦しみやつらさは、人間が人間として正常な状態にいないことから生じて、そのことを僕たちに知らせてくれるものだ。そして僕たちは、その苦痛のおかげで、人間が本来どうあるべきかということを、しっかりと心に捕えることができる」
きっと、もっとも危険なことは、間違った道に進みながら、それを苦しいと感じないことなのだろう。苦しみやつらさを感じられるのであれば、「人間が本来どうあるべきか」を知ってそれに向かっていけるというメッセージは、きっとコペル君と同じような年頃の人たちにとって、とてつもなく勇気づけられるものだと思う。
コペル君は(そしておじさんも)自分の弱さと向き合い、それをごまかさないことで人として強くなっていく。
でもおそらく人は、自分一人だけでは、自分の弱さと向き合い続けることはできない。コペル君にとってのおじさんのような存在が、きっと必要なのだ。もちろんそれだけの意味ではないと思うけれど、だからこそ吉野源三郎さんは「君」ではなく「君たち」と呼びかけたのではないだろうか。
つづく
【明日8月24日】マガジンハウスから漫画版『君たちはどう生きるか』が発売されます!
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