ケシゴムの記憶(マンガについての雑文)
昨日ツイッターで、『ケシゴムライフ』について、こんな感想をくれた方がいた。
すき間を埋めるための一言を踏み出す勇気、失敗してもいいから踊りを見せる勇気。その小さな勇気が境界線を繋がりに変えるのかなと感じました。
作品だけでなく後書きからも、羽賀さんの物の考え方が伝わってきて、温かい視点に感動しました。
この感想を読んで、あの短編群のテーマは「勇気」なのかもしれない、とあらためて考えるきっかけになった。
思えば、描いているときはテーマなんて具体的なものはなく、ただ綿菓子のような漠然とした目指すべき「感触」があるだけだったような気がするし、世に出してもっともよく言われた「ほっこりしました」という感想は、どんな気持ちなのかうまく想像できないでいた。
だから、昨日『ケシゴムライフ』の感想で「勇気」という言葉を出してくれた方がいて、とても嬉しかったし、「そうか」と思うところがあった。
自分は繰り返し何度も、「勇気」をマンガにしようとしているのかもしれない。それは、僕の中に勇気が溢れてあり余っているからではなくて、その逆で、勇気がないから、そうなっているのだと思う。
むかし、おそらく小学校の四年生だったと思う。こんなことがあった。
クラスの中にいじめられている子がいて、その子に触るとバイキンがつくとかいって、からかっているいじめっ子がいた。
ある日、そのいじめられっ子に僕はケシゴムを貸した。そうすると、それを見ていたいじめっ子がだっと駆け寄ってきて、「いますぐこれを捨てろ」と言い寄ってきた。
「なんで?」
「いまバイキンがついたからだよ」
いまでもそのときの情景を思い出して、(梅雨で雨が降っていたとか、床のワックスのてかりとか)いやな気持ちになる。
結果的に僕は言われるがままにケシゴムを捨ててしまった。そして、自分は「そういう」人間だったんだと、とても落ち込んだ。
あのときの自分には、いじめっ子に立ち向かって、自分のケシゴムをしっかり握りしめている勇気がなかった。そのあとの人生でも勇気を出せなかった場面は、腐る程あるわけだけど、自分の人生ではじめて「勇気のなさ」を思い知ったのは、その場面だったのかもしれない。
『ケシゴムライフ』の中で、ケシゴムは誰かと誰かを繋げる重要な役割をもっている。それは簡単に投げ捨てられたりはしない。
そのことは、もしかしたら小学生の自分の体験とも関係しているのかもしれないと、昨日頂いた感想を読んで、はじめて思った。