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「瞳に生命を」

こんにちは。マンガ家の羽賀翔一です。ノートを書くのはとても久しぶりで、こうして文章を打ち込んでいると、人前でマイクを持って話すときにスピーカーから反響する自分の声を聴いているような、恥ずかしさと緊張を感じています。

けど今なら何か書けそうだ、とせっかく思い立てたので、心の中のハウリングをある程度無視しながら、このノートを書いていこうとしています。

書こうとしているのは、ざっくり言うと「絵とはなんだ?」ということです。

久々に書くくせに、でかい話です。おそらくこの文章を読んでも答えは出ません。学びになるようなものもないと思います。ただ僕が「絵とはなんだろう」「自分は絵を描くときに何を考えているんだろう」ということを書くだけです。もっというと、僕の場合、「人を描くとはなんだ?」ということになりそうです。

なぜそれを書こうと思い立ったかというと、先日、中学生のときに描いた自画像を引っ張り出してきて、こんな絵だったかとしみじみ見ていたら

その絵の裏に当時の先生からのコメントが赤字で書かれているのに気づいたのです。そこにはこう書かれていました。

「瞳に生命を」

僕は瞬間的にすこしショックを受けました。おそらく15歳の僕もショックだったろうと想像しました。あなたが描く絵には命が宿っていないと言われることは、「絵が下手」とか「デッサンがおかしい」とかそんな言葉よりもなにか深いところに刺さる感触があるのです。

そして正直なところ、この絵の瞳に生命があるのかないのか、いま見ても僕にはよくわからなかったのです。

自分の絵は変化している。でもそれは本当にいい変化なのか。

そもそも絵とは、命が宿った人の絵とはどんなものなのか。

僕は23歳の時にはじめてマンガを投稿し、新人賞の一番下の賞をとり、担当編集がついて(当時講談社にいた佐渡島さん)、マンガ家になろうと決意し、以来10年間、絵を描いてきました。

10年前の僕はこういう絵を描いていました。

あまり信じてもらえないかもしれないけれど、僕は自分は絵が上手い、と思って(本気で思って)これを描いていました。

この絵じゃ商品にならない、と言われて、はじめて「これじゃダメなのか」と思いました。

けど、ぼくは自分がはじめて投稿したこの『インチキ君』が自分が描いたマンガの中で一番好きで、自分の人生を変えてくれたという意味でも宝物です。そんな思い入れがあるせいかもしれませんが、いま見返しても「人が生きて動いているな」という印象を受けます。線もよれよれでデッサンもむちゃくちゃなのに、不思議とです。

僕にとっていい絵とは、「いま自分の目の前にこのキャラクターがいる」と錯覚するような、そんな没入感を与えてくれる絵です。

それを実現させて、多くの人に見てもらうには、構図やデッサン力、線の美しさや、絵のアイディアが必要となります。

しかしそれらがまったく足りてなくても、魅力的な絵がある。それはなにを持ってして魅力的なのか。「瞳に生命」を宿らせるためには、何を描けばいいのだろうか。

僕は似顔絵をたくさん描くことで絵の訓練をしてきました。

似顔絵は似てる、似てないという明らかな判断基準があります。どれだけデッサンが達者でも色が綺麗でも、似てなきゃそれは絵としてダメなわけです。

もし、似てるなあと人に思わせることができれば、その絵には生命が宿っているといえるかもしれません。

似顔絵を描くときに僕が意識していることは、

その人の造形よりも雰囲気を捉えること、と

なるべく少ない線で描く

という2つです。つまり、少ない情報(線の数)でたくさんの情報量(その人の雰囲気や感情)が表現できたときに、「いい似顔絵が描けたぞ」と手応えがあるのです。

これはもしかしたら、「瞳に生命を」宿らせるための条件にもなるかもしれません。必要最低限の工数で、感情の質や量が伝わり、見る人の感情を動かす絵を描く。

僕は別に描き込みを否定しているわけではもちろんありません。優先されるのは情報量の方です。情報量が増えるのならば、情報(線)は増やすべきですが、絵の情報量が変わらない線を足すことは良くないのではないかと考えているということです。

つまり、実際に人に会っているときに受け取っている情報量と同じかそれ以上の情報量を、エッセンスが圧縮された絵を通して与えることができれば、その絵には生命が宿っていると言えるのかもしれません。

7月26日からの根津カレーラッキーでの個展のために、僕は中学生のときの自画像のつづきとなる絵を描き下ろしました。いままで描いた絵の中で、一番強い感情をこめて描いたつもりです。はじめて絵を描きながら何度か泣きそうになりました。それに、自分の中にある強いマグマ的などろどろの存在も感じたりしました。

この絵をみて、感動してくれた人ももちろんいるけれど、何も感じない人ももちろんいます。なにしろここに描かれている人や思いは誰もがわかるわけではないからです。そういった意味でいうとこの絵から受け取れる情報量というのは人によってバラバラです。

でももしかしたら物語というものの力を借りれば、ここに存在している思念は、僕の中にある情報量に近いまま、人に届くのではないかという気がしています。

僕はいまそのためにマンガを描こうとしています。そしてもし、それがうまく完成すれば、あの中学生のときに描いた自画像の瞳には生命が宿っていたと言えるんじゃないでしょうか。僕はあの絵をみて、その続きを人に届けたいと思ったのだから。

-------------------羽賀翔一関連情報------------------------
■羽賀翔一原画展「それから」
・場所:根津カレーラッキー
https://tabelog.com/tokyo/A1311/A131106/13172216/dtlmap/
・期間:2019年8/16(金)まで 
・営業時間 
[火~土] 11:30~14:00 18:00~21:30
[日] 11:30~14:00(夜営業なし)
月曜日定休

■羽賀翔一インタビュー「僕にだってドラゴンはいる 2019」
https://note.mu/ikeda_qtaro/n/n6a52992e9362

↑僕を応援してくれている『羽賀部』の方からうけたインタビュー記事です!今回の展示への思いについて話しました!ぜひ見に行かれる前に読んでいただけると、より楽しんでいただけると思います!

このインタビューでも触れている、特別描き下ろし『僕にだってドラゴンはいる2019』を複製原画化して販売おり、先着5名で、その複製原画に購入者の方の似顔絵を加えてみる試みをしています。
すぐには売り切れないと思うので(笑)、ぜひ、現物をご覧いただいてからご購入をと思いますが、遠方の方や今すぐにでも欲しいという方は、こちらの販売ページをご覧ください。

https://hagashoichi.stores.jp/items/5d395ea74c80644c5da94eb3


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